2014年2月26日水曜日

『風立ちぬ』をDVDで観たくて仕方がない今日このごろ

 僕ね、早く宮崎駿監督の『風立ちぬ』のDVDを買いたいんです。
 以前、ブログやブロマガで批評したことがあるんですけど、今はもう、そんな屁理屈はどうでもいいんです。
 重要なのは、僕が『風立ちぬ』を観て、奮い立つような生きる力を得た、ヒーローになりたくなった、猛烈に恋をしたくなった、気になる異性に告白したくなった、焦げつくように人間を愛したくなった、という事実なんです。
 どんな言い方をしても大げさになりますが、こんな大げさな表現があてはまることなんて、人生において早々ないことじゃないですか。
 だから、大事にしたいですよね、そういう気持ちは。
 僕にとって最高の映画とは、やっぱり生きる力を与えてくれるものなんですよね。べたですけどそれがベターであり、なに、他に言いようがないじゃないですか。
 正直、そんな作品は多くない。
 ましてや文学においてそれに値する作品など数えるくらいしか知りません。
 大半の本は、自分が書くときに活用するために読んできた「使い捨て」に過ぎない。
 ことにも日本の作家の作品が僕に生きる力を与えてくれたか? その問いには、残念ながらノーと答えるしかありません。
 だから僕は、Google+において、東野圭吾の本を読んで感動しただとか抜かす輩どもが鼻持ちならないんです。
 などと、話は逸れましたが、とにかく一刻も早く『風立ちぬ』のDVDを発売して欲しいものです。

 勿論、それは告白したい人がいるからです。

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2014年2月25日火曜日

『太郎取扱説明書』あとがき

 この小説は“インディーズ文庫”というレーベルから発売されたものです。
 従って、インディーズだからこそ発表できる小説を出さなければ意味がない、という観点から、形式も内容もまとめようと努めました。
 例えば、この小説の形式は「枠物語」となっております。
 「枠物語」とは別名「額縁小説」とも言われ、さまざまな短編を織り込んで一つの長編とする形式のことです。デカメロンあたりに端を発しているそうですが、現代文学だと絶えて用いられていないようです。
 しかし、私はこの形式を使うことにしました。
 なぜといって、この形式ならば、過去に公募で落選した作品を無駄にすることなく当てはめることができるからです。
 まさにインディーズだからこそできることの一つといえるでしょう。
 かつまた、小説家志望の方々をターゲットにしたこともインディーズならではの試みだと思っております。
 以前ニコ生の配信では言いましたが、これまで読者に対する小説はあっても、作者に対する小説は少なかった。
 しかし現状、読者数は減っているのに、作者数は増えております。
 ならば逆転の発想で、作者をターゲットにすることで何らかのムーブメントを起せるのではないか、と画策致しました。
 インディーズならでは、といえば、やはり現在の文壇への風刺の多さも見逃せないポイントでしょう。ことにも“恋愛小説”の章などは、かなりねっちりと文壇への風刺をこめて書いた記憶があります。
 発表して一ヶ月近くが経とうとしている今、私には達成感とはまったく別の奇妙な感慨がわいてきています。
 それはこの『太郎取扱説明書』内で用いた主題や物語たちが2014年の現実とシンクロしているということです。
 れいの大河内守氏の「ゴーストライター事件」は“恋愛小説”の章に、名古屋での殺人未遂事件は“ミステリー小説”の章に、そして、ともなりたかひろとしての現実は“SF小説”の章に、重なる部分が多く見受けられます。
 何より、この『太郎取扱説明書』全体が、2014年現在日本に何万といる小説家志望の方々全員にあてはまるのですから、そういった意味でもぜひ一読していただきたいものです。

                        2014年2月25日 ともなり たかひろ

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2014年2月24日月曜日

通り魔の心理――大野木亮太容疑者へ――

 名古屋での殺人未遂事件、犯人は30歳であるという。
 僕も今年29であるから、ほぼ同世代といっていい。
 ゆえに僕は、彼の「動機」や、「動機の現れ方」などが、よく理解できる。
 他人事ではない、という気持ちもある。
 多くの世人は、彼が通り魔をした「動機」ばかり探ろうとするが、本当に重要なことはその「動機の表れ方」なのだ。
 例えば、通り魔をすることによって世間が、
「どんな理由があったにせよ、人様に迷惑をかけるなんて論外だ!」
 という冷たい反応をすることは、彼でなくても、あらかじめ予測できることだ。
 そして、そうした「世間」から「冷たくあしらわれる」という反応について、納得できる部分と納得できない部分、言い換えれば、冷たくあしらわれて当然だよなという大人な考えと、こんなにツイてない僕にそんなに冷たくしないでくれという子供な考えとが、あるいは、世間は悪くない悪いのは僕だという建前と、いや、やっぱり世間が悪いのだという本音とが、交錯し、「股割き状態」になっているのだ。
 股割き状態は、つらい。
 この場合、人は足を組み直して、楽な姿勢に戻りたくなるのが当然であろう。
 ゆえに、「逮捕される」ということは、彼にとってマイナスではない。ゼロに戻っただけのことなのだ。

 ゼロに戻ったのだから、変な話、彼はある意味ではホッとしている可能性もあると思う。
 もう、これ以上苦しまなくて済むのだから。

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2014年2月23日日曜日

嫉妬心について――森鴎外の半生――

 古今東西、「嫉妬」が歴史を形成してきた、といっても過言ではない。
 こと文学の世界で嫉妬に人一倍敏感だったのは、かの森鴎外である。
 鴎外は、陸軍に任官してからというもの、同期の人間との猛烈な出世争いにしのぎを削ってきた。
 鴎外は当時の医学先進国たるドイツへの留学を目指していたが、成績が8番とふるわなかったため、念願の文部省給費留学生(いわゆる特待生のことだ)にはなれず、失意の底にあった。その頃、同級の者たちは次々と陸軍に入っていたのである。
 失意の鴎外を救ったのは、同級の小池という青年である。
 一足早く陸軍に入っていた彼は、上司である軍医本部次長の石黒なる人物に手紙を書き、鴎外の陸軍行きを推薦してくれた。この同期とはいえ八歳年長の者から受けた恩を、鴎外は後に仇で返すことになる。
 嫉妬深かったのは、なにも鴎外だけではない。
 とくに谷口謙たる人物は頭一つ抜けた嫉妬深い男であったそうだ。仲間の身持ちの悪さを上官に告げ口し帰国させるような陰険さを持ち合わせていた。当然、鴎外もその陰険さのターゲットになった一人であった。
 鴎外はこの谷口の妨害により、医学研究を断念し、軍医の実務を学ぶはめに立ち至ったのである。プライドの高い鴎外としては、並みの軍医なら誰でも出来る軍医実務に不満たらたらであった。
 それでも、同期生で昇進競争を勝ち抜いたのは、鴎外と鴎外を引き抜いてくれた小池であった。彼らは二等軍医正、軍医学校教官とほぼ前後して出世の階段をのぼっていった。
 二人の友情に亀裂が生じたのは、明治26年だったといわれる。
 石黒(鴎外を陸軍に入れてくれた人)は、医務局長を辞することを決意し、小池を後任とするレールを敷いた。これは、かたや小池は将来の局長を約束されたことを意味し、かたや鴎外が陸軍の中枢ラインから外されたことをも意味する。
 繰り返すようだが、鴎外は実に嫉妬深い人物である。当然、この手の人事も屈辱ととる男である。ゆえにこの事件についての激情は、すぐさま『舞姫』という文学作品にて吐露されることになる。

 官長はもと心のままに用ゐるべき器械をこそ作らんとしたりけめ。独立の思想を懐きて、人なみならぬ面もちしたる男をいかでか喜ぶべき。

 鴎外周辺の人間模様を知る者ならば、すぐにこの文章中の「官長」は石黒であり、自在に動く「器械」は小池であることに気づく。
 軍部に身を置きながら文学活動もしている鴎外を気に食わない連中は多かったが、鴎外はこの手の文学上の復讐を何度もしている。
 はっきりいって、こうした公私混同はフェアではない。なぜといって、小池たち官僚は、立場上、人事の真相を明かすことができなかったからだ。仮に抗議すれば、登場人物が自分たちであることを認めてしまうことになる。ここに文学者の強みがあり、官僚の弱みが存在する。
 こうなると小池たちは、どうやったら鴎外の舌鋒を切り抜けて彼を苦しめることができるか、そこに知恵を絞るようになる。
 そこで彼らは閃く。
 官僚の世界には人事権がある。これを利用すればよいのだ。
 こうして鴎外は1899年の6月に、第十二師団軍医部長に命じられた。この東京の近衛師団から小倉の二桁番号への転勤は、どう贔屓目に見ても「左遷」と言ってよい。彼らの心情をまとめれば次のようになるだろう。
 ――嫌ならば陸軍を去るがよい。好きな文学活動に専念して、今後一切軍部の人事に不満を持たなければよい。
 しかし、そこは鴎外もバカではない。当時の愛読書だったクラウゼヴィッツの『戦争論』の中の一節“弱国の受動的反抗”を手本に取りながら、小池一派の勢力が衰える日を忍耐強く待ったのである。
 この辛抱強さを嫉妬と呼ばずになんと呼ぶのだろうか。
 その後も小池らからの妬みによる下策をたびたび切り抜けながら、鴎外もついに勝負に出た。
 明治陸軍の大立者山形有朋への接近である。常盤会という歌詠みの集まりに出席し、山形の機嫌を取り、彼の圧力を借りて小池一派らを制圧しようと画策したのだ。
 やがて鴎外は山形との縁もあって、総理大臣や陸軍大臣とも手を組むことに成功する。さすがの小池も不承不承鴎外を後任として認めざるを得なくなる。しかも鴎外は不遜にも小池の人事に関する要望をすべてはねつけたのである。まさに鴎外の嫉妬が実を結んだ瞬間であった。

 周知の如く、この後鴎外は挫折を経験し、「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」という孤独な遺書を残して最後の瞬間を迎えることになるのだが、ここには欲しかったものが得られなかった無念さと共に、この期に及んでもなお懲りない嫉妬心を抱いていたことが見受けられるのであるから、まこと嫉妬心とはげに恐ろしいものと言わざるを得ない。

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2014年2月22日土曜日

詩集『核家族』について

 Twitterからいらっしゃった方へ、まず一言言っておきます。
 昨晩は感情的になってしまい、すみませんでした。
 しかし、テコ入れのように時々怒っておかなければ(刺激を挿入しなければ)、持続して読者の目を引くことは困難なのです。
 私はある程度計算の上でキレたり、人を煽ったりする人間です。
 昨晩の怒りについて皆さんは、私が名前のある人に嫉妬してキレた、あるいは、日本人が名前のある人にしか関心がないことにキレた、と思われているかもしれませんが、本当のところは、こんな求心力のなさで、3月にネット通販で売ろうとしている詩集『核家族』が全て捌けるだろうか、という裏事情があっての怒りでした。
 こういった事情も、私のニコニコでの配信を見ていればわかることでしょうが、なかなかニコ動での活動と、Twitterでの活動と、ブログ(Goggle+)での活動が、繋がってくれません。
 私の部屋の片隅には、詩集『核家族』が約180部、不気味な負債のように積まれております。
 私はそれを観るといつもゾッとし、何度悪夢に唸らされたかわかりません。
 私も以前はよく売り込みにいったものです。海老名のサブカルチャーに関連するお店――例えば、ヴィレッチバンガードさんや、チャイハネさんや、あるいは、市の図書館など――さまざまな店に、置いてもらえないか、と交渉に行きました。
 しかし、ほとんどの店にとっては迷惑以外の何者でもなく、どの店も半月置いてくれればいい方でした。それは当たり前のことでしょう。誰も手にとってくれないものを長期間置いてくれるわけがありません。
 私は現実での限界を知った思いでした。繰り返しになりますが、日本人は名前のある人にしか関心を持とうとしないのです。
 こういった背景から、私はネット通販を利用することを決意しました。
 中編小説『人に迷惑をかけるな』がまがりなりにも400pvを達成したことを考えれば、無料の詩集180部もなんとか捌けるのではないか、という私の計算は決して自惚れではないと思うのです。
 しかし、最近のTwitterでの私に対する関心の薄さに、なんだか奇妙に自信がなくなってきました。
 私のフォロワーの中核は、「小説家になろう」というサイトに属している方々です。
 語弊を恐れずに言えば、彼らは「正統な文学」の歴史には属しておらず、いわばアニメ的リアリティーにどっぷり浸かっている世代です。
 反して、私の根本精神は実は保守的で、文学の歴史に連なりたい思いが強く、作品も純文学の色が濃い。
 要は、本当はお互いに分かり合えていない、ろくすっぽ作品も読み合っていないくせに、お義理一片でRTしてはし返す、という上っ面だけの関係なのです。
 それでも、彼らをマーケティングしないことには、私には道がない状況です。
 彼らをどう引き込むか、はたまた、180部の詩集をどう捌くか、――これを考えるだけで私はまた夜な夜なれいの悪夢に唸されることになるわけです。

 果たして、この先どうなるのでしょうか?

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2014年2月21日金曜日

かぐや姫の物語論

成功も失敗もしていないアニメ

 岡田斗司夫さんが、この『かぐや姫の物語』について、「5回寝た」と発言していたそうだが、僕だって事前に炬燵で寝ていなければそりゃ寝ていたに違いない。
 この映画の一番厄介な点は、自己完結型の作品である以上、成功も失敗もしていない、という点なのだ。
 だから、面白い・つまらないは軽々しく断定できないし、実際は面白いのか・つまらないのか最後までよくわからない映画なのだ。しかし、そんな曖昧さも、この作風の中では自己完結性の一部として回収されてしまうのだから、厄介な話である。
 よく批評をしていて、内心「負け惜しみかなぁ、今回は」と思ったり、いくら理屈で打ち勝っていても無意識の内に作品の器のデカさに敗北している時がままあるが、今作に限ってはそんなことはなく、批評が負けるほどの器のデカさは感じない。
 むしろ、つつきたい部分が山ほどある作品なのだ。

 「絶世の美女」に見えないかぐや姫

 まず一番違和感を感じた点が、主人公のかぐや姫が、「ふつうに美しい女の子」には見えても、「絶世の美女」には見えない、という点である。
 おそらく高畑勲は、「絶世の美女」を描くには、余りにも地味な感性をしているのである。
 例えば、普段はバタバタ廊下を走り回っていると思いきや、琴などの技芸をやらせればしおらしい横顔を見せる、というようなかぐや姫の持つギャップが、ギャップに見えない(色気に見えない)というのは、どういうことだろう?
 「絶世の美女」の定義は人それぞれあるだろうが、少なくとも、この作品においては[「月」のようにぞっとするほど色気があり、捉えどころのない女でなければならない。
 従って、高畑勲は、「月」というものへの扱いも間違っている。
 それこそ誰でも知っている事実だが、月は自ら光っているのではない。ゆえに、まばゆいばかりに輝く(明るい)という性格は、月ではなく、むしろ太陽なのである。
 「月」というものは本来、何かの「消息」であり、ふとした瞬間によぎる「他者」なのだ。この辺りのことは、松岡正剛さんの『ルナティックス』というエッセイを図書館で借りて読むといい。
 『かぐや姫の物語』を“誰も見たことのない映像美”というが、それは表面的な見方でしかなく、観てみるとわかるが、根幹にある感性は全面的に資料的であるし、どこかで見たような紋切り型の表現の連続でしかない。

 月世界の登場の唐突さ

 また、月の世界(天人の世界)の登場はあきらかに唐突である。
 その証拠は、月の世界の存在をかぐや姫が一から十まで「口で説明している」点を挙げるだけで十分だろう。本来、月の世界の存在は、それまでの物語が終局へと集約していくダイナミズムを生まなければいけない役割のはずなのに、その登場が余りに唐突なので、観客は「理解」はできても、「納得」はできないレベルに留まっている。
 高畑勲は、
「かぐや姫が地球に来た理由は作中で語った」
 と言っているが、観客を納得させるレベルではないどころか、映画として明らかに駆け足すぎるので、むしろ蛇足的な設定にまで貶めてしまっている。
 「月」を象徴的に使いたいのならば全編に渡って象徴的に使うべきで、そこは『風立ちぬ』が全編に渡って「風」を象徴的に織り交ぜていたのとは対照的だと言えるだろう。

 “日本最古の物語”というコピーの欺瞞

 ここからは蛇足になるが、かなり気になったことなので書いておくが、多くの人が『竹取物語』を語るときに、「誰もが知っている」という前置きを無意識に使いすぎであると強く感じる。
 僕などは『竹取物語』のあらすじなどほとんど知らなかったほどで、また、知人に聞いてもやはりうろ覚えの人が大半であり、一般的に見ても「誰もが知っている」というコピーは欺瞞であると感じる。
 それに、『源氏物語』だろうが、『平家物語』だろうが、『竹取物語』だろうが、現代人から見ればどれも「古い物語」として一括されるのだから、そこにことさらに差異などない。
 ゆえに制作者たちがことさらに『竹取物語』を選んだのは、ただ単に「日本最古の物語を現代に蘇らせた」という箔が欲しかっただけとしか思えない。

 セルフ・パロディー

 蛇足ついでに書いておくが、これまでの高畑勲作品のセルフ・パロディーと思われるシーンも、ちらほら見られた。もっとも代表的なのは、『アルプスの少女ハイジ』の、クララが立ったシーンと、かぐや姫が立ったシーンであろう。
 あるいは、かぐや姫が「自然」や「望郷の念」に駆られるのは、『おもいでぽろぽろ』にも通底していたテーマである。非常に年寄り臭いとは思うが、高畑勲としてはどうしても引き寄せられるテーマなのだろうと思う。

 まとめ

 Twitterなどで、「号泣した」などと抜かしている輩は、どういうセンスをしているのか、まったく理解できない。
 かぐや姫の造型は「現代の子供」の本質とは程遠いし、物語自体も若者のフックに引っかかるような箇所は極端に少ないからだ。
 そう考えていくと、この作品はどの年齢層をターゲットにしていたのか、はなはだ疑問である。
 この『かぐや姫の物語』は、宣伝で使われているような「罪と罰」なんて大げさな話ではなく、実際はシンプルな「親と子の物語」であるから、子を持つ親御さん、あるいは、子が離れてしまった親御さんが暗涙にむせぶのかもしれない。
 実際、僕が映画館に行ったときは、中高年ばかりと混じって観たのである。
 なにはともあれ、僕としては何一つ感化される点がなかった。
 それだけで相当の損を感じている。
 今後、映画代が1700円以下にならない限り、僕はジブリ映画は観ないつもりである。

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2014年2月20日木曜日

海老名市について

 関東大震災が発生したのは1923年9月1日午前11時58分のことであった。
 ちょうどお昼時に重なったこの大震災は我が海老名の地にも多くの被害をもたらした。海老名では55人の方が亡くなり、相模大橋が無残にも崩れ落ちた。
 昔の資料で地震による家屋倒壊率の円グラフを見てみると興味深いことがわかってくる。北は下今泉から南は門沢橋まで、相模川に沿った場所で甚大な被害が出ているのである。とくに中新田や中野では90%の家屋が潰れた。一方、相模川から離れた場所に位置する国分や杉久保などでは比較的被害が少なかったことがわかるのだ。
 当時ほとんどが同じ木造家屋であったにも関わらず、なぜこのような差が出たのであろうか。
 被害の大きかった相模川沿いは「低地」と呼ばれ、座高は14~20mくらいで周囲に比べて低く、現在は水田になっている。
 この「低地」よりも座高が高い場所――柏ヶ谷や座間駅から海老名駅にかけて小田急線が走っている地域など――を「台地」と呼ぶ。
 これの他に、上星小学校付近から海老名中学校東側の瓢塚を通って杉久保小学校に到る起伏に富む丘が連なる地域を「台地」と呼ぶ。
 かくの如く、海老名の大地というのは低地・台地・丘陵で成り立っているのである。
 前述の通り、海老名が1923年の関東大震災で大きな被害を受けた。そして、その大半が低地であったこともすでに書いた。低地の堆積物はれきの他にやわらかい砂や粘土であるため、地震の揺れに極度に弱いのである。
 水を含んだやわらかい砂で出来ているため、れいの「液状化現象」も起こりやすい。
 反して、台地や丘陵はいわゆる関東ローム層で出来ている。関東ローム層は火山灰が何万年もかけて降り積もり出来たものゆえ低地に比べて強度が引き締まっている。ゆえに、関東大震災でも被害が少なく済んだのである。
 現在の海老名の土地利用としては、丘陵や台地においては住宅地の開発が進み、どんどん埋め立てれたり削られたりしている。国分寺団地などが最たる例であろう。
 また、工業用水(機械の冷却水や洗浄のための水)使用のため、相模川の近くには多くの工場が建っている。
 工場は高速道路沿いにも多い。勿論、交通の便がよいためである。

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2014年2月19日水曜日

ワークショップとは何か?

 市民活動に接近している読者ならば一度は聞いたことがあるであろう言葉、ワークショップ。
 ではそもそもワークショップとはどういう意味なのでしょうか?
 今回は、岩波新書の『ワークショップ』(中野民夫著)を手引きに、一緒に勉強していきましょう。
 
 まず、ワークショップの定義について学びましょう。
 ワークショップとは元来「作業場」の意味で、その言葉の定義は広く、なかなか一つに絞れませんが、差し当っては「参加体験型グループ学習」とでも訳しておけば間違いないと思われます。
 みんなで議論しあって知識を高め合う場です。

 次に、現在のワークショップの現状を探ってみましょう。
 ワークショップのおこりは、アメリカのコネティカット州のニューブリテン市で起こった「人種差別をなくすために働くケースワーカーのためのワークショップ」だったそうです。
 グループ・ダイナミズム(集団力学)の提唱者であるクルト・レヴィンがリーダーとなって、ロール・プレー(役割を演じる遊び)や対話学習を行いました。1946年のことです。
 これがワークショップ、また、ひいてはワークショップ的な方法論のはじまりと言われています。
 その方法論は、産業界や、まちづくりや、教育など多分野へ導入されていきました。

 現在のワークショップは二つの軸を元に展開されています。
 一つ目の軸は、学び(受動)と創造(能動)です。
 二つ目の軸は、個人と社会です。
 この二つの軸が交差し合うことを前提にすると、ワークショップの分類がしやすくなります。
 例えば、学び(受動)と個人側に傾けば「セラピー活動」になったりしますし、あるいは、創造(能動)と社会側に傾けば「まちづくり」の活動になったりするわけです。勿論、学びと同時に創造でもある「ダンス・ワークショップ」などの複合的な分野も存在します。

 最後に、皆さんも参加してみたくなるようなワークショップを紹介して今日のブログを終えたいと思います。
 
 〈演劇ワークショップ〉
 劇作家・演出家平田オリザ氏が主催している演劇のワークショップは、毎年凄い数の若者の申し込みがあるそうです。
 ちょっと古い例で恐縮ですが、1994年10月に青山円形劇場で行われた『転校生』という演劇は、一般公募された140人もの女子高生とのワークショップの成果だったそうです。また、東京の世田谷パブリックシアターは特にワークショップに力を入れている劇場だそうです。一度足を運んでみてはいかがでしょうか。

 〈ヒーリング・ライティング〉
 聞き慣れない言葉でしょうから、以下丸々引用してみることにします。

 ヒーリング・ライティングは、つなぶちようじ氏が1997年に立ち上げた.書くことで自分を内側から癒す.ためのワークショップです。
日々、色々なストレスに直面していて、気分転換をはかるとき、誰かと食事に行ったり、買い物やエステ、旅行などに行ったりします。時にはゆっくりお風呂につかったり、たっぷり眠るなどするかもしれません。ストレスを解消するために何かをしても十分な効果が現れないと感じるとき、自分の心が本当に何を求めているのかに少し耳を傾けてみてください。もしかしたら、そこにヒントが隠れているかもしれません。
人の心は多くの矛盾を含んでいるものです。しかし、表現するときにはその矛盾を整理して表現していく。ヒーリング・ライティングでは矛盾した思いは矛盾した思いのまま表現していきます。そうすることで自分が止めていた考えや感覚、思い出などが明らかになり、あなたの心で何かが始まります。
あなたの心で始まる何かは多くの場合、現状に対する解答を求めることです。
現代のように忙しい状況にいると私たちは自分の心を見失ってしまいます。心ではああしよう、こうしようと感じていても、実際に行動はできない。そんな状況になれてしまうと自分の心さえもあてにしなくなる。その結果、「自分一人で考えたって何も変わらないし、何の答えもでない」などと、無意識のうちに自分の心を否定してしまうのです。その結果、目の前の問題について考えなくなる。人によっては感じることすらなくなります。
ヒーリング・ライティングではその問題に直面するすべを自分で見つけていきます。
頭の中でだけ考えていると何度も同じ考えを繰り返したり、たくさんの思考のあとにせっかく考えた内容を反映できなかったりします。書くことによってそのようなことを止めることができるのです。こうやっておこなっていくエクササイズの結果、あなたはあなたにしか気づけない、何か大切なことにたどり着くのです。
ヒーリング・ライティングは治療行為ではありません。健全な人が、さらなる深みを求めておこなうものです。
ヒーリング・ライティングでやること
文章を書くことで自分の心を味わっていきます。
自分の心がなぜそのようになっているのか、その理由を探ります。
自分の心の矛盾を直視することで自分にとって必要なことに気づいていきます。自分が自動的に繰り返す言葉を知り、それを修正します。
自分が引き寄せる感情について探ります。 文章を朗読します。
自分史をつくります。
現在と過去・未来の関係について考えます。
自分の幸福をデザインしなおします。 ライフデザインのためのタイムマネジメントを学びます。
自分と環境の関係を知り、新しく創作します。


・・・余談ですが、文学のワークショップがないのはいかにも残念ですね。
 僕ももう少し名前が売れた暁には文学ワークショップを主催してみたいなと思っています。

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2014年2月18日火曜日

詩「傘がある」

私の傘がある
あなたの傘がある
私は帰る
傘があるから
あなたは帰る
傘があるから

あなたの仕事終わり
わたしの仕事終わり
わたしは、あなたの「おつかれさまでした」の意味を知っている
あなたは、わたしの「おつかれさまでした」の意味を知っている
それなのに、傘だては厳粛な演技の場になる
それぞれの週末の消失点は
雑踏の遠近法にかき消される
これじゃダメだとわかっているのに
これを何度となく繰り返している
ああ
雨の音は子供のときのままなのに
空虚なおしゃべり以上の関係を求められるとは
折りたたみ傘と二人
帰ってはいけない方向に
足を運ぶ私
足を運ぶあなた
末永く
病める時も
健やかなる時も
孤独でいることを
たった一本の傘が
決めてしまいました

私の傘がある
あなたの傘がある
私は帰る
傘があるから
あなたは帰る
傘があるから

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2014年2月17日月曜日

今日のランチから使える雑学その10


1、左利きは早死にしやすい?

 これはまったく科学的根拠のない迷信である。
 世の中は右利き社会であるから、当然世に溢れる道具も右利き用になっている。これらを上手く使いこなすことができない不便さから、この迷信は生まれたといわれている。


2、舌を噛み切って死ねるか

 結論からいえば、死ぬ確率はかなり低い。
 舌を噛み切ってみればわかることだが、ほとんどの場合、喉に詰まって吐き出してしまう上、筋肉が止血しようと収縮するので、出血量も少ない。
 もし死ぬ可能性があるとしたら、噛み切ったときの「ショック」による死であろう。

 
3、ゴキブリに食器用洗剤が効く理由

「ゴキブリが死ぬぐらい強い食器用洗剤なの? 人間にもダメージがありそう」
 と世の奥様方はのたまうかもしれないが、ご安心を。その理由はゴキブリの体質にあるのだから。
 ゴキブリの体は脂ぎっている。そして、洗剤は油と馴染みやすい。これらの特徴から、洗剤をかけると、ゴキブリの表面にある気門(呼吸する穴)を塞いでしまうことになるのだ。
 つまり、ゴキブリの死因は「窒息死」なのだ。


4、死海には生物がいるか?
 現在、死海の塩が健康や美容にいいともてはやされている。
 死海とは、ヨルダンとイスラエルの国境に位置する湖で、人体が浮くほど塩分濃度が高いことで有名な場所だ。
 なぜこんなにも塩分濃度が高いのかというと、湖面が、海面下390mという低い位置にあるから、ヨルダン川から流れ込んだ水の出て行く場所がなく、乾燥し、その水分が蒸発して塩分が濃くなっているといわれている。
 さて、この死海、「生物は住み着けない」と思われているが、たった一種類だけ生物が住み着いている。
 その生物とは「藻」である。
 この「藻」は、ミネラルも豊富に含んでいるため、前述のとおり、美容(エステ)に活用されたりしている。


5、シャンプーボトルのギザギザとは?

 結論からいうと、リンスとの区別のためにつけられている。
 そのきっかけは、花王が、どうしたら簡単にシャンプーとリンスが見分けられるか考えていたとき、訪れた盲学校で、「片方の容器だけゴムを巻いて識別をしている」と聞き、ギザギザを考案したそうだ。


6、電車の「クハ」などの文字の意味は?

 まず先頭のカタカナ。
 運転室=「ク」
 モーター=「モ」
 両方ないなら「サ」となる。 
 次のカタカナは車両の種類。
 グリーン車=「ロ」
 普通車=「ハ」
 寝台車=「ネ」
 となっている。
 つまり、「クハ」とは、「ク」=運転室+「ハ」普通車なので、運転室のついた普通車両のことを指すのだ。


7、木魚はなぜ魚の形をしている?

 お坊さんの横で、ぽくぽく叩かれている木魚。殺生が禁じられている仏教の世界で、「不謹慎なのでは?」と思う人もいると思うが、なぜ魚の形なのだろうか?
 答えは、魚は昼も夜も魚は目を閉じないから。
 そんな魚のように修行に励め、という意味が込められている。


8、アダムとイブが齧った禁断の果実の正体

 人間の祖先のアダムとイブが、エデンの園から追放されるきっかけとなった、禁断の果実。
 これを私たちは「リンゴ」だと思い込んでいる。が、本当にそうなのだろうか?
 リンゴといえば、寒い地域でしか育たない果物。
 乾燥した地域であるユダヤの地にリンゴの木はなかったと推察される。
 では、なんの果実だったのか?
 原文には、アダムとイブは「いちじくの葉で身体を隠した」とあるから、イチジクではないか、という説が有力なのだそうだ。


9、「近世」と「近代」の違い

「近世」は安土桃山時代から江戸時代の終わりまでを指し、「近代」は、明治維新から太平洋戦争終結までを指す。


10、なぜともなりたかひろは毎日ブログを書くのか?

 Googleアドセンスの審査を通るには、最低10記事は必要だからである。

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2014年2月16日日曜日

ゾンビについて――『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』に寄せて

 『ジョジョの奇妙な冒険』の作者である荒木飛呂彦先生に漫画以外の著書があることはあまり知られていないかもしれない。けれど、なかなか多くの著作を書いておられる。

 今日紹介したいのは、その中の一つ、集英社新書から出版されている『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』の中の第一章「ゾンビ映画」についてだ。

 荒木氏によれば、いわゆるゾンビ映画の鼻祖(びそ)は、ジョージ・A・ロメオ監督の『ゾンビ』(1978年)だそうだ。

 この映画は、アメリカ各地で死者が蘇り、噛みつく事でその仲間を増やしていくところから話が始まり、ヒロインとその恋人と警察官らがとあるショッピングセンターに立てこもり、ゾンビたちと立ち向かいサバイバルしていく話である。

 こう設定だけ書き出してみると、さすがにパイオニアだけあって似たような映画(たとえば『ミスト』など)を幾つも発見できることと思う。

 ところで、この『ゾンビ』という映画は何を変えたかといえば、“ゾンビ”という無個性な敵役が登場した点にある、と荒木先生は指摘する。

 それまでのホラー映画の敵役といえば、フランケンシュタインやヴァンパイアなど個性の強いものばかりだった。

 それが『ゾンビ』という映画により一変した。

 さらに荒木先生は、“ゾンビ”という存在から、ある哲学的な発見すらしている。

 曰く、ゾンビの見分けのつかなさ(無個性さ)――それは噛まれて増殖しても見分けがつかないことからも増幅される――は、時間を超越した人間存在の永遠の相を象徴しているのではないか、というのだ。

 逆に言うと、過去でもあり、未来でもあり、現在でもあるような、人間存在の永遠の相が浮かび上がる存在はすべらかく“ゾンビ的”とも言えるのである。

 事実、荒木先生は著作の中で、この哲学的見方を現実における映画館の観客に重ね合わせている。

 “映画館にカップルで見にきている若い人たちがいますよね。(中略)映画を見始めた四十年前のカップルと現在のカップルとは当然別人のはずなのに、ずっと同じカップルが映画館にいるようにさえ感じられるのです。そしてそこから飛躍して、「いったいいつからいるんだろう?」「あのカップルはゾンビかもしれない?」などと想像を巡らせると、ゾッとしてしまうことさえあります。”

 この時間を超越した人間存在の永遠の相という見方は、実は作家の稲垣足穂が「実存哲学の余白」というエッセイに書いた内容と酷似する。

 “きらきらとした都会の大通りを、あなたの愛人と共に腕を組んで歩いているとき、ふと、いまとそっくりに同じことが、考えられもせぬ遠い過去にあったのではないか? また、自分らの現在とは、じつは遥かに先の未来の世紀の夜にぞくするのではあるまいか?  と考えることがある。”

 また、稲垣足穂と同時代を生きた横光利一は『旅愁』の中の一節で、主人公の矢代がパリを見て、「何世紀も前の古い仏閣のように思われた」と漏らすのに対し、連れの久慈は、「これはもう二百年後の東京の姿だ」と言うのにも相通ずる。

 つまり、ゾンビ的存在=時間を超越した人間存在の永遠の相は、実存主義の末期的発想であり、いわば世紀末の感覚といってもいいのである。

 これとは別の話だが、ゾンビ=死者=人生の先輩=先祖とすると、先祖に対する敬い方が殺す以外にないのがとても面白い、と指摘するあたりは、いかにもジョジョの作者らしいというより他はない。

 無論、いちばん“ゾンビ”らしいのは、まったく老けることのない当の荒木先生の方なのだが(笑)。

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2014年2月15日土曜日

『想像ラジオ』論

【あらすじ】
 
  この小説は、おそらく3. 11以降の日本を舞台にしています。
 あらすじは、Djアークと名乗る人物が、杉の木の上から、“想像ラジオ”という架空のラジオ番組を、想像上のリスナーにお届けしている、というお話です。
 この時点で多くのクエスチョンがついていると思います。
 まず、杉の木の上に人がいる時点で、Djアークという人物の「実在性」(ほんとうに存在しているのか)が疑われます。さらに、決め手は“想像ラジオ”です。なにせ、「想像上のラジオ」ですから、先天的に「実在性」が疑われます。けれど、「実在する」という態で、Djアークは“想像ラジオ”を進めていきます。
 しかし、番組内で、実際にリスナーの反応があるんです。
 つまり、『Djアークって奴は実在していて、“想像ラジオ”っていう名前のラジオ番組をやっているという「想像」を実在視している人々』が一定数いるんですね。
 でも、そのリスナーたちの存在も、単なるDjアークの「想像」かもしれないわけだし、はたまた、Djアークの「想像」と、リスナーの「想像」とが、奇跡的に“想像ラジオ”という架空のラジオ番組という形で合致した、という可能性もあるとも言えるわけです。
 要は、Djアークの存在も、“想像ラジオ”の存在も、リスナーの存在も、すべてこの世界の誰かによる幻想・あるいは共同幻想というわけなんです。
 言い換えると、「想像」は実在しているとも言えるわけなんです。
 ただ、それを断定する客観的な立場がいないので、それは最後まで確証を得られない仕組みになっています。
 この状態をわかりやすく言えば、多くの別の場所にいる人物たちが一つの同じ夢の中で再会している、みたいなものです。
 それでこのDjアークという人物は、第一章の最後の方で既にほのめかされるんですけど、――死者なんですね。
 で、放送を続けていく中で、自分の身の上話やら、色んなリスナーの身の上話やらを、聴いたり、話したり(当然ラジオですからリスナーからのメッセージも届くわけです)、その間、曲を流したり、放送していく中で、なぜかね、妻の声だけが聴こえないんです。それが、自身の想像力不足なのでは?ってDjアークは迷うわけです。これが、物語中盤のフックになっています。
 結局、妻の声を聴けて、“想像ラジオ”は終了と相成り、ちゃんちゃん、っていうお話なんです、ざっくり言えばね。
 
【テーマ】

  テーマは、たった一つです。
 死者に対する見方をチェンジしよう、ということですよね。
 それが、見る(感受性)ではなくて、聴く(想像しよう)という言い回しに現れています。作中でも、感受性だけ鋭くて想像力がない人間は最悪だ、なんて言ってますから、まず間違いないでしょう。
 ちゃんと死者の言葉を聴こうよ、といとうせいこう氏は主張します。
 作中の言葉を借りれば、
「亡くなった人はこの世にいない。すぐに忘れて自分の人生を送るべきだ。まったくそうだ。いつまでも囚われていたら生き残った人の時間も奪われてしまう。でも、本当にそれだけが正しい道だろうか。亡くなった人の声に時間をかけて耳を傾けて悲しんで悼んで、同時に少しずつ前に歩くんじゃないのか。死者と共に」
 まぁ、そういう優等生的なテーマがこの作品に通底しているわけです。
 想像せよ。想像せよ。
 作中、それを何度も、暗示のように繰り返します。
 だからもう最後の5章なんかは、ほとんど共同想像の元気玉か!と思うくらい、オカルティックの一言に尽きます。
 前述の通り、そのリスナーの存在すらDjアークの「想像の産物」でしかないかもしれないのに、――リスナー数が物凄く増えてるんですよね。
 でも、2章では、視点(語り手)が、実際に生きている人間の女性に変わるんですけど、その女性は“想像ラジオ”の音声は聴こえないんだけど、“想像ラジオ”の存在そのものには気づいている、と自ら語っているんですよ。
 だから、くどいようですけど、この“想像ラジオ”の「実在性」(本当に存在しているのか)は、証明できません。
 というか、二つの次元で「実在性」を問われるべき、と言った方が正確でしょうか。つまり、「想像上」という意味で実態はないが、同時に、「想像上」において実在しているんです。
 わかりましたでしょうか?
 くどいようですが、これを僕は、想像の元気玉、と呼んでいます。
 ちなみに、この『想像ラジオ』は、Twitter上の呟きが元になっている、という点で、中島みゆきさんの『ファイト!』を思い出したりしました。
 すいません、Djともなりの余談でした。
 
                     【作者の意図】
 
 僕はこれまでいとうせいこうさんの作品をほとんど読んできました。その立場から言わせていただければ、この『想像ラジオ』は、「いとうせいこうさんらしさ」の集大成だと思いました。
1、作中の表現で、Djアークが「たとえ上手なお喋り屋」って自己紹介をするんですよ、すると当然ね、ああ、言葉の野蛮人、ヴァーヴァリアンだ、と思いますしね。(いとうせいこうさんは、『mess/age』というヒップホップアルバムの中でもそう自称していますし、『ワールドアトラス』というコラム集でもヴァーヴァリアンを名乗っています)。
2、結局、DJアークは「喋る」ことで、リスナーにも自分にも「ある暗示」を与え、いろいろ過剰解釈を与えているうちに、自分自身の問題(奥さんの声が聴こえない)から逃げ出したいわけなんですよ。これは作中、『想像ラジオが聴こえない人はこんな人だ』というコーナーがあるんですが、そのとき作るナンチャッテ小説を頭で思い浮かべ喋ることによって、奥さんとの思い出から逃避しようとするシーンに集約されます。 この「脈略のない喋りの効果」って、1993年に発表した『解体屋外伝』だよなぁ、と思わざるを得ませんでした。
3、せいこう氏は、以前(たぶん90年代です)自身のホームページで誰かとのメールのやりとりを掲載してまして、類推(あれとこれって似てんなぁ)が人類の想像力の限界なんじゃないか、と示唆しているんですね。作中、最後の5章の話なんかは、もう、自分の話なのか、自分がきいた話なのか、父親の話なのか、他人の話なのか、地元に伝わる民話の話なのか、わからなくなるほど、すべての想像力が溶け合っていくんですね。 というのは、その類推の可能性と限界を示しているのかな、とも思ったりしました。
4、何はさておき、1997年に出てる『ワールドアトラス』というコラム集で、『ラジオがまったく新しいメディアに生まれ変わる日を私は空想する。ラジオなら貧富の差に関係しにくい。インターネットに変わるメディアが現れるとしたら、それはラジオである。」と予言しているんですよね。
 これはもう、予言を実現化させた、と言ってもいいんじゃないでしょうか。
 まぁ、今作に寄せて付言すれば、貧富の差は関係しないが、想像力の差は関係する、といったところなんでしょうけどね。
5、これは方法論の話なんですけど、差異と反復、これを、まぁ多様する作家さんだな、と常々思っておりまして、今作でもそれは健在です。
 当然、“想像ラジオ”っていう番組が、まず、反復されるモチーフとしてあるんですね。
 で、第2章では別の視点(語り手)によってその“想像ラジオ”にまつわるエピソードを挿入するわけです。で、第3章で、再び、「はい、はじまりました、想像ラジオでーす」みたいな感じで、再帰(原点に返ってくる)してくるわけです。
 じゃあ、内容は最初の番組と同じかというと、――当然違うわけですよ。最初の放送に、曰く言い難い何かが付け足されている、っていうね。
 結論としましては、再帰性(ふたたび立ち返る)という意識を常に保ちつつ、差異と反復で地道に話を進めていって、最後の章の前の章で結論めいたことを言わせてしまう、というのが彼の作品の特徴なんです。
 じゃあ最後の章はなんのためにあるのかといえば、徐々に盛り上がっていく余韻に当てられているんですよね。
 これは彼の作品の不変の構造といっていいでしょう。
 この辺の構造論は、作家を目指す方は参考にしてもいいかもしれませんよ(おまえも参考にしろよ)。
6、細かいところで言うと、DJアークの生い立ちを見ていくと、アフリカのビートを取り入れたちょっとひねくれたバンドに入っていた、っていうくだりは、完全にヒップホップだよなぁ、とか思ったり、DJアークは音楽事務所のマネージメントをすることになるっていうくだりも、せいこう氏の経歴と重なる部分があるよなぁ、と思ったり、――要するに、結構、実体験を巧みに盛り込んでいる箇所が多いと感じる作品でもありました。

      【私的感想】


  残念ながら、帯にかかれれあるような大絶賛とは程遠かったですね。
 というか、全然なんの感動もしなかったですね。
 ちょうどね先日、ブロマガでBUSINっていうRPGゲームの二次創作で3.11を扱ったり、ずばり「3.11」という詩もね動画としてupしたりしてるんで、震災っていう問題は、僕にとってもある意味リアルタイムな問題であり続けているわけですけど、――その理由はですね、大きく分けて4つあると思います。
 まず、①。
 他者のことを自分のことと混同すること自体がおかしい。
 あの、――そんなに混同しますかね、自分のことと他人のことを? 自分の思い出と、他者の身の上話と、その地方に伝わる民話を、混同するって、そりゃもう、ボケじじいじゃねーかっていうね。だって、このDjアークは38歳っていう設定なんですよ? まだボケるには早くないですかね?
 あと、反転させて言えば、簡単に自分のことを想像なんかで理解して欲しくないんですよ、僕はね。
 例えば僕は今鬱病で、つい最近病院を変えたんですけど、診察する医者は、ケースワーカーの人が記録したカルテを一通り見て、僕という人間を「想像」するわけですよね、それでこの前、「性格の問題なんじゃないですか?」って一言で終わらせられたんですよ。そんなもん、むかつくじゃないですか。だって、僕の成育歴なんか一つもきかずに、「想像」でものを断定しているわけですから。
 その②。
 作中、災害なんかで生き残った者は多かれ少なかれ加害者意識を持っている、と述べている箇所があるんですが、――甘いですよね、この人間認識。この『想像ラジオ』っていう小説上においては読者を酔わせる一句に収まっているんですけど、僕は正面切って「世の中、そんな奴ばっかじゃねぇから」って言いたい気分ですね。
 だって、現実に、震災の翌日にパチンコ屋に通う奴だっていたじゃないですか。
 それに、いつも思うことなんですけど、多くの人が常日頃から「被災地」という「バイオリズム」に乗って生きているとは思えないんですよ。
 それは、福島だけじゃなくて、例えば、一つの牛を食べるときに、ああ、この牛にも一つの物語があったんだ、なんて想像しますか? 否、想像しなきゃいけないんですかね? っていう疑問符は当然つくわけですよ。
 それと震災ピンポイントで言えば、言い方は悪いですけど、それは運・不運の問題であって、それ以上ではないですよね。だって、人間なんて、いつ、どこで、どんな原因で、死ぬかなんかわからないじゃないですか。
 だから僕は、大抵の生き残った人間は加害者意識なんて持ってないという考えです。
 その③。
 ずばり、「死」についての解釈の甘さ、ですね。
 僕は以前、生放送でも、Twitterでも、述べたことあるんですが、飛び降り自殺したいって思う人はいても死体になりたいって人はいないと思うんですよ。だって、飛び降り自殺の死体なんて、汚いじゃないですか。要するに、「死」って「生の物語」の「結果」ではないんですよ。むしろ、それまでの「生の物語」との繋がりが経たれてしまうような「外見」になってしまう現象、それが「死」なんじゃないですかね。
 つまり、不条理なんですよ、「死」っていうのは。解決不可能なんです。だから、悲しい、わけじゃないですか。
 従って、この『想像ラジオ』的な「救い」は安易すぎる、って思うんですよ。
 もっと言えば、そもそも「死者の声を聴く=想像力で死者と歩め」というテーゼが、「死」そのものの「本質」と、あまりに不似合いなんですよ。
 僕は、あまりにいい気なもんだ感が出すぎだ、と正直思いました。
 その④。
 「想像力」への不信感ですね。
 元も子もないこと言うようですけど、作中、「想像せよ」「想像せよ」って繰り返し口すっぱくして言うんだけれど、・・・そんな面倒なことしないよ、大抵の人は!
 それに、そんな想像力(他者のメッセージを聴く)能力なんかさ、ねぇよ、大方の人は! って素直に思いました。だって、それって、テレパシーとかイタコの世界の話じゃないですか。
 
 とまぁ、感想としてはそんなところです。
 

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