かぐや姫の物語論
成功も失敗もしていないアニメ
岡田斗司夫さんが、この『かぐや姫の物語』について、「5回寝た」と発言していたそうだが、僕だって事前に炬燵で寝ていなければそりゃ寝ていたに違いない。
この映画の一番厄介な点は、自己完結型の作品である以上、成功も失敗もしていない、という点なのだ。
だから、面白い・つまらないは軽々しく断定できないし、実際は面白いのか・つまらないのか最後までよくわからない映画なのだ。しかし、そんな曖昧さも、この作風の中では自己完結性の一部として回収されてしまうのだから、厄介な話である。
よく批評をしていて、内心「負け惜しみかなぁ、今回は」と思ったり、いくら理屈で打ち勝っていても無意識の内に作品の器のデカさに敗北している時がままあるが、今作に限ってはそんなことはなく、批評が負けるほどの器のデカさは感じない。
むしろ、つつきたい部分が山ほどある作品なのだ。
「絶世の美女」に見えないかぐや姫
まず一番違和感を感じた点が、主人公のかぐや姫が、「ふつうに美しい女の子」には見えても、「絶世の美女」には見えない、という点である。
おそらく高畑勲は、「絶世の美女」を描くには、余りにも地味な感性をしているのである。
例えば、普段はバタバタ廊下を走り回っていると思いきや、琴などの技芸をやらせればしおらしい横顔を見せる、というようなかぐや姫の持つギャップが、ギャップに見えない(色気に見えない)というのは、どういうことだろう?
「絶世の美女」の定義は人それぞれあるだろうが、少なくとも、この作品においては[「月」のようにぞっとするほど色気があり、捉えどころのない女でなければならない。
従って、高畑勲は、「月」というものへの扱いも間違っている。
それこそ誰でも知っている事実だが、月は自ら光っているのではない。ゆえに、まばゆいばかりに輝く(明るい)という性格は、月ではなく、むしろ太陽なのである。
「月」というものは本来、何かの「消息」であり、ふとした瞬間によぎる「他者」なのだ。この辺りのことは、松岡正剛さんの『ルナティックス』というエッセイを図書館で借りて読むといい。
『かぐや姫の物語』を“誰も見たことのない映像美”というが、それは表面的な見方でしかなく、観てみるとわかるが、根幹にある感性は全面的に資料的であるし、どこかで見たような紋切り型の表現の連続でしかない。
月世界の登場の唐突さ
また、月の世界(天人の世界)の登場はあきらかに唐突である。
その証拠は、月の世界の存在をかぐや姫が一から十まで「口で説明している」点を挙げるだけで十分だろう。本来、月の世界の存在は、それまでの物語が終局へと集約していくダイナミズムを生まなければいけない役割のはずなのに、その登場が余りに唐突なので、観客は「理解」はできても、「納得」はできないレベルに留まっている。
高畑勲は、
「かぐや姫が地球に来た理由は作中で語った」
と言っているが、観客を納得させるレベルではないどころか、映画として明らかに駆け足すぎるので、むしろ蛇足的な設定にまで貶めてしまっている。
「月」を象徴的に使いたいのならば全編に渡って象徴的に使うべきで、そこは『風立ちぬ』が全編に渡って「風」を象徴的に織り交ぜていたのとは対照的だと言えるだろう。
“日本最古の物語”というコピーの欺瞞
ここからは蛇足になるが、かなり気になったことなので書いておくが、多くの人が『竹取物語』を語るときに、「誰もが知っている」という前置きを無意識に使いすぎであると強く感じる。
僕などは『竹取物語』のあらすじなどほとんど知らなかったほどで、また、知人に聞いてもやはりうろ覚えの人が大半であり、一般的に見ても「誰もが知っている」というコピーは欺瞞であると感じる。
それに、『源氏物語』だろうが、『平家物語』だろうが、『竹取物語』だろうが、現代人から見ればどれも「古い物語」として一括されるのだから、そこにことさらに差異などない。
ゆえに制作者たちがことさらに『竹取物語』を選んだのは、ただ単に「日本最古の物語を現代に蘇らせた」という箔が欲しかっただけとしか思えない。
セルフ・パロディー
蛇足ついでに書いておくが、これまでの高畑勲作品のセルフ・パロディーと思われるシーンも、ちらほら見られた。もっとも代表的なのは、『アルプスの少女ハイジ』の、クララが立ったシーンと、かぐや姫が立ったシーンであろう。
あるいは、かぐや姫が「自然」や「望郷の念」に駆られるのは、『おもいでぽろぽろ』にも通底していたテーマである。非常に年寄り臭いとは思うが、高畑勲としてはどうしても引き寄せられるテーマなのだろうと思う。
まとめ
Twitterなどで、「号泣した」などと抜かしている輩は、どういうセンスをしているのか、まったく理解できない。
かぐや姫の造型は「現代の子供」の本質とは程遠いし、物語自体も若者のフックに引っかかるような箇所は極端に少ないからだ。
そう考えていくと、この作品はどの年齢層をターゲットにしていたのか、はなはだ疑問である。
この『かぐや姫の物語』は、宣伝で使われているような「罪と罰」なんて大げさな話ではなく、実際はシンプルな「親と子の物語」であるから、子を持つ親御さん、あるいは、子が離れてしまった親御さんが暗涙にむせぶのかもしれない。
実際、僕が映画館に行ったときは、中高年ばかりと混じって観たのである。
なにはともあれ、僕としては何一つ感化される点がなかった。
それだけで相当の損を感じている。
今後、映画代が1700円以下にならない限り、僕はジブリ映画は観ないつもりである。
ラベル: かぐや姫の物語,批評,高畑勲

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