『想像ラジオ』論
【あらすじ】
この小説は、おそらく3. 11以降の日本を舞台にしています。
あらすじは、Djアークと名乗る人物が、杉の木の上から、“想像ラジオ”という架空のラジオ番組を、想像上のリスナーにお届けしている、というお話です。
この時点で多くのクエスチョンがついていると思います。
まず、杉の木の上に人がいる時点で、Djアークという人物の「実在性」(ほんとうに存在しているのか)が疑われます。さらに、決め手は“想像ラジオ”です。なにせ、「想像上のラジオ」ですから、先天的に「実在性」が疑われます。けれど、「実在する」という態で、Djアークは“想像ラジオ”を進めていきます。
しかし、番組内で、実際にリスナーの反応があるんです。
つまり、『Djアークって奴は実在していて、“想像ラジオ”っていう名前のラジオ番組をやっているという「想像」を実在視している人々』が一定数いるんですね。
でも、そのリスナーたちの存在も、単なるDjアークの「想像」かもしれないわけだし、はたまた、Djアークの「想像」と、リスナーの「想像」とが、奇跡的に“想像ラジオ”という架空のラジオ番組という形で合致した、という可能性もあるとも言えるわけです。
要は、Djアークの存在も、“想像ラジオ”の存在も、リスナーの存在も、すべてこの世界の誰かによる幻想・あるいは共同幻想というわけなんです。
言い換えると、「想像」は実在しているとも言えるわけなんです。
ただ、それを断定する客観的な立場がいないので、それは最後まで確証を得られない仕組みになっています。
この状態をわかりやすく言えば、多くの別の場所にいる人物たちが一つの同じ夢の中で再会している、みたいなものです。
それでこのDjアークという人物は、第一章の最後の方で既にほのめかされるんですけど、――死者なんですね。
で、放送を続けていく中で、自分の身の上話やら、色んなリスナーの身の上話やらを、聴いたり、話したり(当然ラジオですからリスナーからのメッセージも届くわけです)、その間、曲を流したり、放送していく中で、なぜかね、妻の声だけが聴こえないんです。それが、自身の想像力不足なのでは?ってDjアークは迷うわけです。これが、物語中盤のフックになっています。
結局、妻の声を聴けて、“想像ラジオ”は終了と相成り、ちゃんちゃん、っていうお話なんです、ざっくり言えばね。
【テーマ】
テーマは、たった一つです。
死者に対する見方をチェンジしよう、ということですよね。
それが、見る(感受性)ではなくて、聴く(想像しよう)という言い回しに現れています。作中でも、感受性だけ鋭くて想像力がない人間は最悪だ、なんて言ってますから、まず間違いないでしょう。
ちゃんと死者の言葉を聴こうよ、といとうせいこう氏は主張します。
作中の言葉を借りれば、
「亡くなった人はこの世にいない。すぐに忘れて自分の人生を送るべきだ。まったくそうだ。いつまでも囚われていたら生き残った人の時間も奪われてしまう。でも、本当にそれだけが正しい道だろうか。亡くなった人の声に時間をかけて耳を傾けて悲しんで悼んで、同時に少しずつ前に歩くんじゃないのか。死者と共に」
「亡くなった人はこの世にいない。すぐに忘れて自分の人生を送るべきだ。まったくそうだ。いつまでも囚われていたら生き残った人の時間も奪われてしまう。でも、本当にそれだけが正しい道だろうか。亡くなった人の声に時間をかけて耳を傾けて悲しんで悼んで、同時に少しずつ前に歩くんじゃないのか。死者と共に」
まぁ、そういう優等生的なテーマがこの作品に通底しているわけです。
想像せよ。想像せよ。
作中、それを何度も、暗示のように繰り返します。
だからもう最後の5章なんかは、ほとんど共同想像の元気玉か!と思うくらい、オカルティックの一言に尽きます。
前述の通り、そのリスナーの存在すらDjアークの「想像の産物」でしかないかもしれないのに、――リスナー数が物凄く増えてるんですよね。
でも、2章では、視点(語り手)が、実際に生きている人間の女性に変わるんですけど、その女性は“想像ラジオ”の音声は聴こえないんだけど、“想像ラジオ”の存在そのものには気づいている、と自ら語っているんですよ。
だから、くどいようですけど、この“想像ラジオ”の「実在性」(本当に存在しているのか)は、証明できません。
というか、二つの次元で「実在性」を問われるべき、と言った方が正確でしょうか。つまり、「想像上」という意味で実態はないが、同時に、「想像上」において実在しているんです。
わかりましたでしょうか?
くどいようですが、これを僕は、想像の元気玉、と呼んでいます。
ちなみに、この『想像ラジオ』は、Twitter上の呟きが元になっている、という点で、中島みゆきさんの『ファイト!』を思い出したりしました。
すいません、Djともなりの余談でした。
【作者の意図】
僕はこれまでいとうせいこうさんの作品をほとんど読んできました。その立場から言わせていただければ、この『想像ラジオ』は、「いとうせいこうさんらしさ」の集大成だと思いました。
1、作中の表現で、Djアークが「たとえ上手なお喋り屋」って自己紹介をするんですよ、すると当然ね、ああ、言葉の野蛮人、ヴァーヴァリアンだ、と思いますしね。(いとうせいこうさんは、『mess/age』というヒップホップアルバムの中でもそう自称していますし、『ワールドアトラス』というコラム集でもヴァーヴァリアンを名乗っています)。
2、結局、DJアークは「喋る」ことで、リスナーにも自分にも「ある暗示」を与え、いろいろ過剰解釈を与えているうちに、自分自身の問題(奥さんの声が聴こえない)から逃げ出したいわけなんですよ。これは作中、『想像ラジオが聴こえない人はこんな人だ』というコーナーがあるんですが、そのとき作るナンチャッテ小説を頭で思い浮かべ喋ることによって、奥さんとの思い出から逃避しようとするシーンに集約されます。 この「脈略のない喋りの効果」って、1993年に発表した『解体屋外伝』だよなぁ、と思わざるを得ませんでした。
3、せいこう氏は、以前(たぶん90年代です)自身のホームページで誰かとのメールのやりとりを掲載してまして、類推(あれとこれって似てんなぁ)が人類の想像力の限界なんじゃないか、と示唆しているんですね。作中、最後の5章の話なんかは、もう、自分の話なのか、自分がきいた話なのか、父親の話なのか、他人の話なのか、地元に伝わる民話の話なのか、わからなくなるほど、すべての想像力が溶け合っていくんですね。 というのは、その類推の可能性と限界を示しているのかな、とも思ったりしました。
4、何はさておき、1997年に出てる『ワールドアトラス』というコラム集で、『ラジオがまったく新しいメディアに生まれ変わる日を私は空想する。ラジオなら貧富の差に関係しにくい。インターネットに変わるメディアが現れるとしたら、それはラジオである。」と予言しているんですよね。
これはもう、予言を実現化させた、と言ってもいいんじゃないでしょうか。
まぁ、今作に寄せて付言すれば、貧富の差は関係しないが、想像力の差は関係する、といったところなんでしょうけどね。
5、これは方法論の話なんですけど、差異と反復、これを、まぁ多様する作家さんだな、と常々思っておりまして、今作でもそれは健在です。
当然、“想像ラジオ”っていう番組が、まず、反復されるモチーフとしてあるんですね。
で、第2章では別の視点(語り手)によってその“想像ラジオ”にまつわるエピソードを挿入するわけです。で、第3章で、再び、「はい、はじまりました、想像ラジオでーす」みたいな感じで、再帰(原点に返ってくる)してくるわけです。
じゃあ、内容は最初の番組と同じかというと、――当然違うわけですよ。最初の放送に、曰く言い難い何かが付け足されている、っていうね。
結論としましては、再帰性(ふたたび立ち返る)という意識を常に保ちつつ、差異と反復で地道に話を進めていって、最後の章の前の章で結論めいたことを言わせてしまう、というのが彼の作品の特徴なんです。
じゃあ最後の章はなんのためにあるのかといえば、徐々に盛り上がっていく余韻に当てられているんですよね。
これは彼の作品の不変の構造といっていいでしょう。
この辺の構造論は、作家を目指す方は参考にしてもいいかもしれませんよ(おまえも参考にしろよ)。
6、細かいところで言うと、DJアークの生い立ちを見ていくと、アフリカのビートを取り入れたちょっとひねくれたバンドに入っていた、っていうくだりは、完全にヒップホップだよなぁ、とか思ったり、DJアークは音楽事務所のマネージメントをすることになるっていうくだりも、せいこう氏の経歴と重なる部分があるよなぁ、と思ったり、――要するに、結構、実体験を巧みに盛り込んでいる箇所が多いと感じる作品でもありました。
【私的感想】
残念ながら、帯にかかれれあるような大絶賛とは程遠かったですね。
というか、全然なんの感動もしなかったですね。
ちょうどね先日、ブロマガでBUSINっていうRPGゲームの二次創作で3.11を扱ったり、ずばり「3.11」という詩もね動画としてupしたりしてるんで、震災っていう問題は、僕にとってもある意味リアルタイムな問題であり続けているわけですけど、――その理由はですね、大きく分けて4つあると思います。
まず、①。
他者のことを自分のことと混同すること自体がおかしい。
あの、――そんなに混同しますかね、自分のことと他人のことを? 自分の思い出と、他者の身の上話と、その地方に伝わる民話を、混同するって、そりゃもう、ボケじじいじゃねーかっていうね。だって、このDjアークは38歳っていう設定なんですよ? まだボケるには早くないですかね?
あと、反転させて言えば、簡単に自分のことを想像なんかで理解して欲しくないんですよ、僕はね。
例えば僕は今鬱病で、つい最近病院を変えたんですけど、診察する医者は、ケースワーカーの人が記録したカルテを一通り見て、僕という人間を「想像」するわけですよね、それでこの前、「性格の問題なんじゃないですか?」って一言で終わらせられたんですよ。そんなもん、むかつくじゃないですか。だって、僕の成育歴なんか一つもきかずに、「想像」でものを断定しているわけですから。
その②。
作中、災害なんかで生き残った者は多かれ少なかれ加害者意識を持っている、と述べている箇所があるんですが、――甘いですよね、この人間認識。この『想像ラジオ』っていう小説上においては読者を酔わせる一句に収まっているんですけど、僕は正面切って「世の中、そんな奴ばっかじゃねぇから」って言いたい気分ですね。
だって、現実に、震災の翌日にパチンコ屋に通う奴だっていたじゃないですか。
それに、いつも思うことなんですけど、多くの人が常日頃から「被災地」という「バイオリズム」に乗って生きているとは思えないんですよ。
それは、福島だけじゃなくて、例えば、一つの牛を食べるときに、ああ、この牛にも一つの物語があったんだ、なんて想像しますか? 否、想像しなきゃいけないんですかね? っていう疑問符は当然つくわけですよ。
それと震災ピンポイントで言えば、言い方は悪いですけど、それは運・不運の問題であって、それ以上ではないですよね。だって、人間なんて、いつ、どこで、どんな原因で、死ぬかなんかわからないじゃないですか。
だから僕は、大抵の生き残った人間は加害者意識なんて持ってないという考えです。
その③。
ずばり、「死」についての解釈の甘さ、ですね。
僕は以前、生放送でも、Twitterでも、述べたことあるんですが、飛び降り自殺したいって思う人はいても死体になりたいって人はいないと思うんですよ。だって、飛び降り自殺の死体なんて、汚いじゃないですか。要するに、「死」って「生の物語」の「結果」ではないんですよ。むしろ、それまでの「生の物語」との繋がりが経たれてしまうような「外見」になってしまう現象、それが「死」なんじゃないですかね。
つまり、不条理なんですよ、「死」っていうのは。解決不可能なんです。だから、悲しい、わけじゃないですか。
従って、この『想像ラジオ』的な「救い」は安易すぎる、って思うんですよ。
もっと言えば、そもそも「死者の声を聴く=想像力で死者と歩め」というテーゼが、「死」そのものの「本質」と、あまりに不似合いなんですよ。
僕は、あまりにいい気なもんだ感が出すぎだ、と正直思いました。
その④。
「想像力」への不信感ですね。
元も子もないこと言うようですけど、作中、「想像せよ」「想像せよ」って繰り返し口すっぱくして言うんだけれど、・・・そんな面倒なことしないよ、大抵の人は!
それに、そんな想像力(他者のメッセージを聴く)能力なんかさ、ねぇよ、大方の人は! って素直に思いました。だって、それって、テレパシーとかイタコの世界の話じゃないですか。
とまぁ、感想としてはそんなところです。

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