ゾンビについて――『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』に寄せて
『ジョジョの奇妙な冒険』の作者である荒木飛呂彦先生に漫画以外の著書があることはあまり知られていないかもしれない。けれど、なかなか多くの著作を書いておられる。
今日紹介したいのは、その中の一つ、集英社新書から出版されている『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』の中の第一章「ゾンビ映画」についてだ。
荒木氏によれば、いわゆるゾンビ映画の鼻祖(びそ)は、ジョージ・A・ロメオ監督の『ゾンビ』(1978年)だそうだ。
この映画は、アメリカ各地で死者が蘇り、噛みつく事でその仲間を増やしていくところから話が始まり、ヒロインとその恋人と警察官らがとあるショッピングセンターに立てこもり、ゾンビたちと立ち向かいサバイバルしていく話である。
こう設定だけ書き出してみると、さすがにパイオニアだけあって似たような映画(たとえば『ミスト』など)を幾つも発見できることと思う。
ところで、この『ゾンビ』という映画は何を変えたかといえば、“ゾンビ”という無個性な敵役が登場した点にある、と荒木先生は指摘する。
それまでのホラー映画の敵役といえば、フランケンシュタインやヴァンパイアなど個性の強いものばかりだった。
それが『ゾンビ』という映画により一変した。
さらに荒木先生は、“ゾンビ”という存在から、ある哲学的な発見すらしている。
曰く、ゾンビの見分けのつかなさ(無個性さ)――それは噛まれて増殖しても見分けがつかないことからも増幅される――は、時間を超越した人間存在の永遠の相を象徴しているのではないか、というのだ。
逆に言うと、過去でもあり、未来でもあり、現在でもあるような、人間存在の永遠の相が浮かび上がる存在はすべらかく“ゾンビ的”とも言えるのである。
事実、荒木先生は著作の中で、この哲学的見方を現実における映画館の観客に重ね合わせている。
“映画館にカップルで見にきている若い人たちがいますよね。(中略)映画を見始めた四十年前のカップルと現在のカップルとは当然別人のはずなのに、ずっと同じカップルが映画館にいるようにさえ感じられるのです。そしてそこから飛躍して、「いったいいつからいるんだろう?」「あのカップルはゾンビかもしれない?」などと想像を巡らせると、ゾッとしてしまうことさえあります。”
この時間を超越した人間存在の永遠の相という見方は、実は作家の稲垣足穂が「実存哲学の余白」というエッセイに書いた内容と酷似する。
“きらきらとした都会の大通りを、あなたの愛人と共に腕を組んで歩いているとき、ふと、いまとそっくりに同じことが、考えられもせぬ遠い過去にあったのではないか? また、自分らの現在とは、じつは遥かに先の未来の世紀の夜にぞくするのではあるまいか? と考えることがある。”
また、稲垣足穂と同時代を生きた横光利一は『旅愁』の中の一節で、主人公の矢代がパリを見て、「何世紀も前の古い仏閣のように思われた」と漏らすのに対し、連れの久慈は、「これはもう二百年後の東京の姿だ」と言うのにも相通ずる。
つまり、ゾンビ的存在=時間を超越した人間存在の永遠の相は、実存主義の末期的発想であり、いわば世紀末の感覚といってもいいのである。
これとは別の話だが、ゾンビ=死者=人生の先輩=先祖とすると、先祖に対する敬い方が殺す以外にないのがとても面白い、と指摘するあたりは、いかにもジョジョの作者らしいというより他はない。
無論、いちばん“ゾンビ”らしいのは、まったく老けることのない当の荒木先生の方なのだが(笑)。

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