神聖かまってちゃん論〈改稿〉
神聖かまってちゃんは、単なるバンドではなく、一つの事業、一つのプロジェクトだと見た方が正しい。
音楽産業のシステムに一方的に従属するのではなく、インターネット配信をホームグラウンドにした「小さな政府」的な自治性を特徴とする活動形態もそうだし、あるいは、ニコニコ動画などに顕著だが、どんなに素朴な生活でも「小さなドラマ」化できる(というより、視聴者がしてくれる)メディア環境を活用し、自分たちバンドの内情や、人間性や、私生活までも、ホームメイドな虚構化を施し、バンドの持つチーム感や、人間くささを、一種の「萌え要素」として提出し、もはやTVの連続ドラマの中の住人たちのように愛され、そのドラマに「最終回がこないように」という気持ちで応援されている、というような人気の獲得方法もそうだ。
このバンド名「神聖かまってちゃん」には、の子の隠れた計算高さが反映されていて、卓抜な寸言的才能とセルフプロデュース能力と商業的な目線とのバランス感覚が見て取れる。
と同時に、痛切でもある。
というのも、この名前が与える印象は、すべてが去った後ぽつんと取り残された死体につけられた不謹慎な「あだ名」に似ているからだ。
それは、これから「世界」へ進出する若者の視線ではなく、事後の結果から見た冷めた視線でしかない。
そこからの子の不思議な「老成」が生じているのではないか。
これはつまり、時代が自分たちをどう見るか、――転じて自分たちがこれからどういった形で消費されていくのか――そういった諸々を含めた「後日談」を、薄ら笑いでもって先取りしているのである。これを「生きたニヒリズム」と呼んでもいい。
必死で「世界」へ近付こうとする努力がかえって人々に嫌われ、「世界」が離れていくような救いようのない分裂傾向、そのベクトルが持つ「予感」のすべてを内包したバンド名なのである。
ゆえに、よく出来た名前だと僕は思うのである。
ところで、神聖かまってちゃんの「核」はどこにあるのか、と問われれば、僕は食い気味での子という存在が「時代の証人」を体現できる稀有の素材であるからと答える。僕ははっきり言って、音楽性や、バンド自体など、二義的だと思っているクチである。
の子を見たとき、僕がフランスの作家ジャン・ジュネを想起したのは偶然ではない。
どこが似ているのか、と言われれば、やはり特異な「言語」によって勝利した点である。
ジュネは社会的な言語の使用が不可能だった状況にあって、その対極にあった「詩的な言語」によって完璧な倫理的自律性をもった作品を構築し、現実の価値を転倒させた。まさに特異な「言語」によって、時代の「裂け目」を浮かび上がらせた作家であった。
要するに、重要なのは「表現」そのものではなく、「表現」に浮かび上がっている「世界」との「対極性」や、「裂け目」や、「矛盾」なのである。
そこを見てやらないと、の子のやっていることの意味や彼が成し遂げた仕事の意味は、正しく評価されたということにはならないのである。
の子の楽曲世界は、「主語」が多岐に渡って分裂し、その範囲が広大すぎて靄がかっており、それを統一した身体として語ることの不可能性がまず先験的に存在していることに気づくだろう。
彼の狂気の「表出」は、それらの複数の「主語」たちを一つの身体にうまく統合できるかの試みであって、決して「自己表現」などではない。おそらく「自己表現」をやっている余裕など、彼にはないだろう。
ところで、この特徴はそっくりそのまま「時代の病理」でもある。
特にインターネット以降、僕たちは無目的に膨張し続ける「世界」に対してその「最先端」に追いつこうと過剰に「主語」を分裂させ適応させようと努力してきた。
しかも、「身体」でもなく、「精神」でもなく、僕たちの「神経」がそんな倒錯的な「欲望」を抱いており、そこに確かな「手触り」を得たいと焦っているのだから、おかしい。
神経が夢を見ている、という点は重要である。
よく言われる、肉体はくたくたに疲れきっているのに神経が休まらないために眠れない、というのは、このためである。「神経」は「世界」の「最先端」を想像でき、その想定された全体像に行き届くのに、それを回収するための「身体」は一つであり、結局、「欲望」は回収不可能であることを、僕たちは当然知っている。
その「欲望の可能性」と「身体の限界」どちらも拡大させるのが、今の「世界」である。
そこで、どうしても「欲望」を諦めきれない「神経」は、「主語」の分裂を通じて「世界」の「最先端」に接近しようと試みる以外に手段がなくなる。
これを言い換えれば、ミクロな個人の世界のまま、マクロな世界を征服するにはどうしたらいいのか、という主題とその方法に他ならない。これが、の子が血眼になって追いかけていた主題と方法の実態でもある。
の子は渋谷駅前のゲリラライブ敢行を生中継したことに代表されるように、実際の活動範囲はミクロなものに過ぎないものでも、マクロな表現範囲=インターネット上で共有されてなければ満足できないのである。
の子は「世界」を過剰に想定し意識しすぎている。
ということは、常時「神経」が「発情」しているということに他ならない。
彼がよく「ガクブル」だとか、「緊張している」というのは、こういった背景があるのだろうし、またライブにパソコンを持ち込むその意味も以上のような説明から裏書きできるだろう。
ことほどさように、の子という存在から同時代的なメッセージを汲み取りたければ、まずの子が常に「世界」との関係において「緊張関係」を強いられていることを読み取らなければならないのである。
より正確に言い換えれば、彼の本来の資質と時代からの要求の間に「緊張関係」がある、ということになるだろう。
あらゆる面で、の子は「逆説的」にしか、「世界」と付き合えない自分を感じているだろう。
例えば、彼の持つ「子供の世界」に対しては、「公共性」の厳しさが。
ローカルな切り口に対しては、グローバルな視点の必要が。
スピードある自己主張の成立には、面倒な他者の承認が。
以上のような、まったく対極の要素を時代から要求されているため、彼は常に緊張し、常に無理をしなければ、「世界」から脱落してしまう不安を持っているわけである。
だから、彼のやっていることは、過大に見えるし、倒錯的に見えるし、衝動的に見える。
しかし、そうでなければやってられない、というのが実情だろう。
の子の「言語」には、遅延があり、つまづきがあり、意味がかすれていることがままある。
それが「世界」の外圧からひどく痛めつけられた結果だということは、誰が見てもわかるだろう。
「世界」からの外圧――もしくは外圧の予感――これらを過剰に感受してしまった「時代の病理」の責任は、「世界」がとるのだろうか、それとも、「個人」がとるのだろうか?
の子を社会的存在として考えることは、究極において「世界の影響」を争点とした「裁判」に立ち会うことと同義である。
「個人」と「世界」の関係性において、無罪性、有罪性、冤罪性を、どの程度の割合で画定すればいいのか。その「裁判」は現在も神聖かまってちゃんの音楽を通して行われているはずである。
この比喩で話を推し進めれば、の子はさしあたって「状況証拠」を提出しているに過ぎない、ということになるだろうか。
だから、の子のやっていることは「表現」(社会的な形を与えたもの)ではなく、「表出」(自動的に表に出てきたもの)なのだ。
ただ、その方法の選択自体は意図的かもしれない。
意図的に「表出」されるものに賭けることによって、「世界」との「裂け目」を発露させる、その可能性を見出そうとしているように見えてならない。
つまり、それは「裁判」に「逆転勝利」できる可能性と同じなのである。
だから、存在としての生の一瞬に賭ける、という彼の直感は正しい。
正しいし、信頼できる。
の子は、本質的には真実を皆に知らせたいジャーナリスト気質の持ち主だと思っている。
その真実を伝えるのに社会的な言語を持ち合わせておらず、彼独自の私的言語でしか表象できないような制限を受けているがゆえに彼は「時代の寵児」なのだ。
彼の言語表現は、この時代において、必ず「逆説的」な表現と見なされることだろう。
だから、歌が下手糞で音痴なのももっともな話であって、彼の中では「正しく音程をはずしている」としか言い様がないのだ。あれが正規のメロディーなのである。そして、我々はいつもそこに「矛盾」や「裂け目」としての「逆説的」な価値を見出さなければならない。これはもう、彼の宿命かもしれない。
ただ僕はいつの日かもっと普遍的なメロディーも、――それこそ、口ずさめるようなメロディーも――生み出せるようになるかもしれない、とひそかに思っている。
そして、それはきっと真に感動的なことである。
