2014年2月12日水曜日

「なぜ人を殺してはいけないのか?」の答え

「なぜ人を殺してはいけないのか?」という有名な問いがある。
これを難しく考え込む必要はない。
なぜなら、どんな「答え」も「問い」自体を超越することができないような仕組みになっているからである。
後で述べるように、これを僕は「権力装置」と呼んでいる。
真に問題なのは、この「問い」に対する「答え」にあるのではない。
問題は、「問い」と「答え」の「関係性」にあるのである。
なぜならば、究極的に言って、この「問い」は「質問」ではないからである。
これは、質問という形式を借りて、その背後に存在する「権力装置」を暗にほのめかしているのだ。
ゆえに、「答え」も究極的に「答え」ではない。
どの「答え」にも共通するのは、その解答者が属している共同体のルール以上ではない、という点だ。
よって、どの「答え」も、自分が属する共同体のルールの「強度」を主張していることと同じである。
しかし、その「強度」の「根拠」が解答者にはわかっていない。
その「根拠」を生み出すものこそが、他ならぬ「権力装置」である。
よって、これも同じく、「答え」という形式を借りて、背後に存在する「権力装置」を無意識のうちにほのめかしているに過ぎないのだ。

では、「権力装置」とは何なのか?

簡単な話である。
人がルールに従うのは、ルールの正当性ゆえではなく、それが「権力」をもつからだ。
「権力」は、「排除」を生む。それを恐れない人はいない。
だから、「なぜ人を殺してはいけないのか」論理的にはわからないが、「とにかくだめ」となるのだ。
多くの大人は、その根拠を知らない上、その必要性も感じていない。
なぜなら、それは強制させるべき問題だからだ。それに、質問は受け付けない。
つまり「答え」には二種類あるのだ。
問いと答えが対応可能な「答え」と、権力をもち、質問とは非対応に存在し続ける「答え」だ。
というより、「問い」と「答え」の関係には二つの層がある、と言い換えた方がいいかもしれない。
「答え」は、「真の答え」でなくとも、「権力」を得れば「答え」になる、という事実は、誰しも覚えがあるだろう。
例えば、子供が親から「人を殺してはいけません」という「答え」を受けたとき、もっとも重要なのはその内容ではなく、親(答え)との関係性なのだ。
そう教え諭す親(答え)に対して、否定や肯定はできても、「超越」することはできない。
つまり、子(問い)は、親(答え)を超越することは永遠にできないのである。
親子関係とは、先験的な「権力装置」の代表例である。

もうお分かりだろう。
質問者は、
「なぜ人を殺してはいけないのか?」
という問いに対して答える側の大人たちの「根拠」だってすべて「権力」に過ぎないじゃないか、という皮肉をこめて、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問い(答え)を発し、ひとつの「権力」を誇示しているのだ。
もちろん、人を殺した者は、望むと望まざるとに関わらず、ある種の「権力(答え)」をもつ。
その「権力」(答え)を前にすると、あらゆる「問い」は無力化される。
だが、「権力」に対して、「権力」で応戦して、何かいけないのだろうか?

この「問い」に大人たちはまだ「答え」ていない。

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